2011年6月30日木曜日

エンドロールが一番楽しい/SUPER 8 スーパーエイト

1979年の夏。
オハイオの小さな町で保安官の父と暮らす少年ジョー(ジョエル・コートニー)は、ある夜、仲間たちと家を抜け出し、郊外の駅へ8ミリ映画の撮影に出かける。だが、その撮影中に偶然、米軍の貨物列車の大事故に遭遇。アメリカ政府が極秘にしていた“何か”を撮影してしまう。


当たり外れが大きいJ・J・エイブラムズが監督。
スティーヴン・スピルバーグ製作のもと、「E.T」みたいな話じゃないかとか、「スタンド・バイ・ミー」みたいだとか、色々な憶測を呼びつつ、公開まで極端に秘密にされてきたこの作品。
結果、感想としてはそれらのどれとも似ていない。半端なヒューマンドラマが織り込まれた、単なる退屈モンスター映画というのが、この作品の正体。
見終えてしまえば、徹底された情報統制の意味がわかるような気がした。

そりゃ、秘密にもするわ。だって、つまらないもの。

可愛い子供たちのドラマにして、何とかつまらないストーリーを持たせているような展開。
子供は夢見る、子供は素直、正義感が強い、意外とたくましい。だから...なに?
エイリアンは得体が知れない、帰巣本能、凶暴、動きが早い。だから...なに?

俺はこの監督のモンスターに、もう飽きてしまっているんだいい加減。
そして、広げすぎた風呂敷の乱暴な放棄をまた目にさせられて、「お片付けはちゃんとね」と言いたい気分だ。

エンドロールに子供たちが劇中で撮影していた手作り感満載の自主映画が流れる。
カネをかけたシーンの数々よりもはるかに、これが一番面白いという時点で、終わってると思うんだこの映画。


2011年6月19日日曜日

吸い上げるだけじゃなくて惹き込ませてくれ/スカイライン 征服

ロス上空から降り注ぐ青い閃光。吸い上げられる人間たち。空を覆う巨大な飛行物体。それは人類絶望の3日間の始まりに過ぎなかった。

人間が吸い上げられる...何のために?って、展開のユニークさはあれど、巨大な飛行物体も、ぬるぬるしたエイリアンも、何処かで見たようなヴィジュアルで真新しさは殆ど無い。
地上を高速で動き回る巨大生物なんて、まるでウ○コみたいな印象だったけど、大丈夫か?(笑)

しかし、美女がいて、水着シーンもあるし、圧倒的な宇宙生物と斧で戦おうとしたり、実は家族を守るというテーマがあったりと、もう少しやりようによっては、面白く出来たであろう要素が散りばめられていただけに、終わってみればコンピューターゲームのCGムービー部分を1時間半も見せられた様な気になるこの作品の仕上がりが残念で仕方ない。
どうせなら、「クローバー・フィールド」もどきではなく、愛せるB級映画であってほしかった。
あの手の作品は、初めてだから斬新なのだ。いまさらやられた所で、とても見られたものじゃない。

そしてラストのあの消化不良な感じ。
「第9地区」みたいな斬新な宇宙人映画を目指したのだろうか。
もう、全然、意図が解せずに残尿感が残った。
この手のSFアクションで、半端なことはしないで欲しいね。続きがあっても見る気がしない。
こんな画を作りたかったぜ、低予算でも作れるぜ、凄いだろってのは充分伝わってきたんだが、もう少し、まともな脚本とか、アイディアがあれば、吸い上げるだけじゃなくて、ちゃんと観客が惹き込まれるSFに出来たかもしれない。




127時間/面白おかしく生きてる男が初めて「生」と向かい合う感動作

陽気で自信家のアーロン・ラルストン(ジェームズ・フランコ)は、その週末も自分の庭のように慣れ親しんだブルー・ジョン・キャニオンで一人、ロッククライミングを楽しんでいた。
そんな彼を突然、落石が襲い、右腕を挟まれた彼は谷底から一歩も動けなくなってしまう。
あらゆる手を尽くして岩を撤去しようとするが、ガッチリと挟まった岩はピクリとも動かず、助けが来るあても無い。死をも覚悟した彼は、極限の状態で初めて、今まで省みることが無かった自分の人生と向き合い、生きる事への執着に目覚めるのだった。そして127時間後の彼の決断とは...。


 ロッククライミングこそしないものの、深く物事を考えることなく、毎日面白おかしく生きているアーロンの姿に、思わず自分が重なった。(笑)
実話を基に「スラムドッグ$ミリオネア」のダニー・ボイル監督が極限の状態に追い込まれた青年の苦悩と、再生を描くこの作品。劇中の殆どのシーンは、主人公が岩に挟まれた状態で進行。回想と後悔と妄想とが入り混じったアーロンの心象風景が、監督お得意のテクニカルな映像手法とテンポのよい編集で畳み込まれるように展開する。
ただ、片腕が挟まっているだけの退屈な画に終わることなく、観客は、アーロンとともに彼の人生を見つめ直す。そして大切なものに気付くプロセスを共有することになる。

谷底にひと時注ぐ暖かい陽射し。遠くに開けた青い空。キモチよさそうに飛翔する鳥。
しかしそれは、美しいだけでなく絶望的なまでに自由への遠さを感じさせる。
次第に湧き上がる「生への執着」。
ポジティヴに、諦めることなく、彼が選択した手段は、死を待つことではなく、片腕を落としてでも生きることだった。


リアリティいっぱいの切断シーンは、映像の衝撃度以上に観客に「痛み」を共感させる。

まさに極限状態を共感する「127時間」。それを印象付けるのはポジティヴさだった。
彼が失ったものと引き換えに得た「生」への喜びにテンションが上がりつつ、エンドロール。
俺まで歓喜して、ちょっと目頭が熱くなった。

よし!
俺も明日からの生き方について、少し毎日を大事に考えてみよう。
いや、今までもそのつもりだったけど、それ以上に。

しかし、なんだろう。
時間が経つにつれ、痛そうだった切断シーンのインパクトしか思い出せなくなってくる。
あれれ...どんな映画だったんだっけ?(笑)


2011年6月13日月曜日

最大の見所は、素人のオヤヂ主役で1本撮ってしまったこと/さや侍

無断で脱藩し、追われる身となった野見勘十郎(野見隆明)は、一人娘のたえ(熊田聖亜)と共に幾度と無く殺し屋に命を狙われつつも流浪の旅を続けていた。
ある日遂に多幸藩の追っ手によって捕らえられた野見勘十郎。
そして殿様(國村隼)が勘十郎に処したのは「三十日の業」。
それは母君を失った悲しみで笑顔をなくした若君を、一日一芸で三十日の間に笑わせられたら無罪放免、できなければ切腹というものだった。


ウケない芸人が手酷い罰ゲームを喰らう。
そんなバラエティ番組にありがちな設定を時代劇に持ってきた。
乱暴に言ってしまえば、そういう代物だ。

ただし、この作品は観客の想像や期待を良くも悪くも、小さいところから大きなところまで裏切り続ける。
バラエティ番組の脱力したお笑い感覚を残しつつ、バラエティではかなわぬ表現を実現したのも事実なら、見ているこちらが恥ずかしくなるような演出をしれっとしてのけたりもしている。

ひとつの価値観に囚われた不器用な侍と、その娘の「愛情」を描くストーリーはオリジナル。
原作無き映画を制作することが、すっかり困難になった最近。その一点においては、間違いなく快作だろう。

そして最大の見所は、バラエティ番組「働くおっさん劇場」で発掘した素人の野見隆明で1本映画を撮ってしまったところ。これに尽きると思う。
不安げで余裕の無い、汚らしいオヤジが、いつしか愛おしく、ときにカッコ良くさえ思えてしまう。
まるで松本人志の分身のように感じられるシーンもあるが、しかし、松本は出なくて正解だったのかもしれない。松本には決して出せないであろう野見の表情の素晴らしさ、キャラクターの強烈さにこの作品は救われている。